ミャンマー史上における最初の王朝であるバガン朝は、11世紀から13世紀にかけてバガンを中心に繁栄し、後のミャンマー文化の礎を築いた。沿海部を介して仏教文化が伝えられ、人々は功徳を積むため、仏塔を造営し続けた。別の王朝が興起した後も、バガンは水上交通の要所として機能し続け、歴代の国王が仏塔を維持してきた。現在も、バガンはミャンマー文化のふるさととして、国内外の多くの人々に愛好され、保全のための努力が続けられている。
バガン朝の起こり
バガン朝は、11世紀半ばにアノーヤター王の下で建国されたと考えられている。王国の中核は、現在はオールドバガンと呼ばれる城郭にあった。エーヤーワディー河の岸辺に位置し、浸食のため一部が失われたが、往時は城壁が四周を囲んでいた。中心部には王宮が置かれ、城郭の内外には国王自らが建立した大型のパゴダが聳えていた。
水運の大動脈であるエーヤーワディー河を通じて王国の力は各地におよび、有力な穀倉地帯が国力を支えた。バガン朝の影響力は沿海部にまで及び、当時、海上交通を通じてインド各地から先進的な文物を受容していたモン族の国から、様々な文化がもたらされた。高僧シン・アラハンによって伝えられた三蔵経典と仏教は、その代表的なものだろう。
バガン時代初期に造られたモニュメントには、モン語を刻んだミャゼーディ碑文や、モン族の王が建立したとされるマヌーハ寺院、バガン以前のピュー文化の様式を残すパゴダなど、当時の文化交流の痕跡が残されている。
造塔文化の発展
12世紀に入ると王国は一層の発展を遂げた。仏教は社会の広い層に受容され、国王だけでなく大臣や役人たちも、積極的にパゴダの造営に参加し始めた。それにつれて、パゴダが造られる土地も、しだいに城郭から遠い内陸部にまで広がっていった。
ミャンマー文字の使用も普及し、パゴダの造営者は、自らの功徳を後世に伝えるため、碑文に事績を記して設置しました。造営者の名前や役職、パゴダに付随して寄進された土地や品々の詳細が記され、こうした碑文は当時の社会を知るための貴重な手がかりとなっている。
王朝の衰退
しかし、13世紀には王朝の国力に陰りが見え始めた。一説には、国力を傾けるほどの過度な仏塔建設熱が災いしたとも言われている。王朝末期のパゴダは、以前のものに比べ、小型のものが多くなる傾向にある。
決定的な打撃となったのは、元朝中国との戦争だった。現在の雲南地域で両国の勢力争いが激化し、大規模な衝突に至る。その様子は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で言及している。激しい戦闘の末、元朝に敗退したバガン朝は、無数の仏塔を地上に残して13世紀末には滅亡した。
その後のバガン
カンボジアのアンコール遺跡やインドネシアのボロブドゥールなど、東南アジアにはバガンと同じ頃に建設され、その後は長く忘れられていた仏教遺跡がある。バガンがそれらと大きく異なるのは、その後の時代にも信仰上の重要性を失わなかったことだ。14~18世紀のタウングー朝、18~19世紀のコンバウン朝の時代にも、バガンの主要なパゴダは歴代の国王から手厚い保護を受けていた。
バガンに残るモニュメントには、最後の王朝であるコンバウン朝の時代に造られたり、修復や壁画の作成が行なわれたものもある。また、この間に漆器の産地としても知られるようになりました。19世紀に入ると、ヨーロッパ各国から人が訪れるようになり、その独特な景観が記録に残され始めた。
現代のバガン
イギリスの植民地時代、そして独立後のミャンマーにおいても、バガンの保全は重要な課題だった。しかし、広い範囲に膨大な数のモニュメントが散在していることから、限られた人員と予算での保全作業は常に困難だった。
1975年には、バガン周辺を震源とする大きな地震が発生。多数の建造物が被害を受けた。これをきっかけに、国際的にも保全体制を一層強化する必要性が認識されるようになる。
2016年には、再度バガンは強い地震に見舞われた。それぞれのモニュメントは、当時の社会状況や文化交流、建築技術の歴史を今に伝える最良の手がかりだ。ユネスコを始めとする国際機関とミャンマー政府との連携のもと、長期保全のための努力が続けられています。